自分と自由を求めた旅の日記
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プロフィール
HN:
tantas7
年齢:
46
HP:
性別:
男性
誕生日:
1978/11/07
職業:
国営公園スタッフ
趣味:
旅、カメラ、バイク、クライミング
自己紹介:
20台最後の年に
今まで背負ってきた 色んな役割を脱ぎ捨てて 自分と自由を求めてゼロから 歩きだすことにしました。 心のままに、自分にウソをつかず 目の前にあるものをまっすぐに 見つめながら生きていこうと 思っています。
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田口ランディさんの「キュア」
仙川環さんの「無言の旅人」を読んだ。 「キュア」はガン治療、未熟児医療のあり方について、 「無言の旅人」は尊厳死について取り上げた作品。 テーマが似てたせいか一気に読みきった。 前回の「死刑」同様、読み終えた後、 『う~~ん』とうなってしまった。 何千年もある人間の歴史の中で未だに 「生きる」ことの定義も「死ぬ」ことの定義も見つかっていない。 抗がん剤で髪の毛が抜け落ち全身を激痛に襲われながら それでも治るかどうかわからないまま治療を受けて生きること。 まったく意識が無く全身をチューブで繋がれ 人工呼吸器が無ければ自力で呼吸をすることすら できないまま生きること 何をもって「生きている」と定義するのかは難しい。 人それぞれに捉え方があっていいものなのか、 それともその社会の中で定義されるべきなのかすらもわからない。 生きる目的が他の動物のように「子孫を残すこと」なのであれば 子どもを産み育てた時点で役割を終える。 その後仮に脳死状態になったのであれば 安楽死をしてもいいということになる。 でも、当然そんな簡単な割り切り方ができるわけじゃない。 ということは人が「生きる意味」は別にあるということだ。 でも、それって一体?? 権力によって自らの意思を奪われ 誰かの言いなりでしか生きられない人。 それって「生きる」ことになるのかな? まったくコミュニケーションが取れなくなっても 生きている意味は? 頭で考えるとわからなくなる。 うつ病になる人がものすごい勢いで増えているらしい。 それだけ生きていくのがつらい世の中にになっているということだろう。 言い方を返ればそれだけ自分たちの欲求を無視した 不自然な生き方を迫られているということなんだと思う。 人はいつかは死ぬ。 だったらどう生きて、どう死ぬのかは 一人一人が考えることなのかも知れない。 PR 2008/02/29(Fri) 12:50:02
森達也さんの「死刑」という本を読んだ。
森さんは以前オウム真理教を取材し「A」という ドキュメンタリーを撮った人だ。 死刑制度について元々興味があったわけじゃない。 当然ながら身近な問題ではないし、 それがあるからと言って僕の生活がどうこうなるわけでもない。 実際この本を読んだからといって僕の考えが 賛成か反対に大きくぶれることも無い。 世界で起こっている紛争や貧困の問題と同じで あくまで「僕には身近な問題ではない」もののままだ。 ただ、こういった問題について考える時いつも思うのは 同じ人間、しかも同じ日本人の中に当事者になっている人がいる という事実に対する違和感と恐怖だ。 つまり、世の中には死刑を宣告された人がいて、 実際に死刑をされた人がいる。 そして同じ数だけ死刑を望むほどの被害にあった人がいる ということだ。 もし自分の大事な人が理不尽な事件に巻き込まれたら・・。 もし自分がいつか誰かの手にかかって「殺される」ことが わかったまま独房の中で過ごさなければいけなかったら・・。 どちらも今の僕には想像しただけで身震いがする出来事だ。 でも実際家族を殺され死刑を望む人がいて、 制度としてこの国には死刑が存在し実行されている。 どれだけ想像力を膨らませたところで、 どちらの事実もリアルに思い描くことはできない。 もしかしたらリアルにイメージすることを 僕の中の何かが制限しているのかも知れない。 だから同じ国の中で実際行われているこの事実は 僕にとってやっぱり【違和感】であり【恐怖】だ。 国が罰として一人の人間の命を奪うということが どういうことなのか今の僕には答えを出すことができない。 ただ制度としてこの国で行われていることである以上 僕たちは簡単に目をそらしてはいけない気がする。 確かに今の自分には直接関係が無い話かも知れない。 これから先だってその制度の有無について 何かアクションをすることだって無いかも知れない。 でも、被害者として、加害者として死刑と向き合わざるを得ない人が 同じ社会の中にいるという事実は忘れずにいたいと思う。 2008/02/27(Wed) 14:21:06
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